稽古の場で「正面打起し」「斜面打起し」と聞いて、これって流派の違いなのかな?と思ったことはありませんか。わたしも、弓道を始めてから流派の名前を目にするたびに、いまの弓道とどうつながっているのかが気になっていました。
ざっくり流れを書くと、弓はもともと狩りと戦いの道具でした。それが朝廷の儀式になり、武士の時代には弓馬の術として流派が生まれます。鉄砲が広まってからは心と体を鍛えるものになり、明治に一度衰えたあと、大日本武徳会のもとで整えられて「弓道」と呼ばれるようになりました。
戦後は全日本弓道連盟ができて、共通の射法と審査で全国に広がっています。そして小笠原流・日置流・本多流といった流派も、いまもそれぞれに続いています。
この記事は、全日本弓道連盟(全弓連)の「弓道の歴史」と、各流派・辞典類の公開情報を読み比べて整理しました。
- 弓道の歴史の流れ(年表つき)
- 「弓術」と「弓道」の違い
- 小笠原流・日置流・本多流は、いつ・どう生まれたか
- 正面打起し・斜面打起しと流派の関係
- 自分の引き方の系統を知りたいときの確かめ方
弓道の歴史をひとことで|年表で見る流れ
先に全体を1枚にまとめておきます。細かい年号を全部覚える必要はなくて、「道具 → 儀式 → 武士の技 → 心身を鍛える道 → 全国共通の武道」という移り変わりがつかめれば十分だと思います。

「弓術」と「弓道」の違い|呼び名が変わったのはいつ?
武士の時代、弓の技はおもに「弓術(きゅうじゅつ)」と呼ばれていました。敵や獲物を射るための「術」です。
それが明治以降、技そのものより心の教育を大事にする方向へ整えられていく中で、「弓道」という呼び名が広まりました。いつ切り替わったかは資料によって書き方が違うのですが、大日本武徳会の時代に広まり、昭和の初めごろには定着したと見ておくのがよさそうです。
いまでも「弓術」を名乗る流派や体験施設はあります。弓道とは別の弓術として区別されていて、体験を探すときはどちらなのかを見ておくと安心です(弓道体験ができる場所にもまとめています)。弓道そのものの全体像は弓道とはのほうが早いと思います。
古代〜平安|狩りの道具から、朝廷の儀式「射礼」へ
縄文・弥生の弓と、日本の「長い弓」
弓矢は世界中で、手の届かないところにいる動物を捕らえるための道具として生まれました。日本でもずっと昔から狩りに使われていて、弥生時代の銅鐸に描かれた狩りの絵には、すでに長い弓が出てきます。
3世紀の中国の歴史書『魏志倭人伝』にも、日本の人が長い弓を使っていたことが書かれているそうです。日本の弓が長いのは、ずいぶん昔からのことなんですね。木一本の弓から竹と木を重ねる弓へ、という作りの変化は和弓とはで整理しています。
中国の「礼」の思想と、宮中の射礼
4〜5世紀ごろから中国との行き来が増えると、弓にも中国の考え方が入ってきます。特に影響が大きかったのが、儒教の経典『礼記(らいき)』の「射義(しゃぎ)」です。射ることを、人としての在り方を映すものと考える思想ですね。
この考え方から、朝廷の行事として射礼(じゃらい)が生まれました。奈良から平安の宮中では、こうした儀式としての弓が盛んに行われていたそうです。弓道で礼や作法を大事にする考え方は、ずいぶん古いところに根っこがあるとわかります。
鎌倉〜戦国|武士の弓馬術と、流派の誕生
流鏑馬・笠懸・犬追物
源頼朝が鎌倉幕府を開いた12世紀の終わりごろから、弓は武士の技の中心になります。馬に乗って射る流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)が盛んに行われ、武士の訓練であり、心身を鍛える場でもありました。
頼朝が鶴岡八幡宮に奉納した流鏑馬は、いまも行事として続いています。お祭りで流鏑馬を見たことがある人は、あれが武士の弓の姿をいまに伝えるものだと思うと、見え方が少し変わるかもしれません。

小笠原流と日置流が生まれた時代
弓の歴史で流派の名前がはっきり出てくるのは、このあたりからです。
まず、鎌倉から室町にかけて、礼法と弓馬の術を伝える小笠原家が武家の作法の基準をつくっていきます。そして室町時代の終わりごろには、日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)を祖とする日置流の射術が、実戦の射として広まりました。
それぞれの中身は、後半の弓道の流派で書きます。ここでは、儀礼を大事にする流れと、戦場で当てる技を磨く流れが、この時代にそろったとつかんでおけば大丈夫です。
鉄砲の伝来で、弓の役割はどう変わったか
1543年に鉄砲が伝わると、戦の主役は少しずつ鉄砲に移っていきます。戦う道具としての弓の時代は、ここで終わりに向かいます。
ただ、弓がなくなったわけではありません。戦の主役ではなくなったぶん、弓の目的は「心と体を鍛えること」へ移り、技はかえって細かく磨かれていきました。ここが、弓術が弓道へ向かう大きな分かれ目だったのだと思います。
江戸時代|戦の道具から、心と体を鍛える「道」へ
三十三間堂の通し矢
江戸時代の弓といえば、京都・三十三間堂の通し矢が有名です。お堂の長い軒下を、端から端まで矢を射通した本数を競うものでした。
記録としてよく知られているのが、1686年に紀州の和佐大八郎が、一昼夜で13,053本を射て8,133本を通したというものです。数字だけ見ても、ちょっと想像がつかないですよね。速く射ち続けるための工夫が、いまのゆがけ(弽・かけ)の作りにもつながっていると言われています。
三十三間堂では、いまも新成人などが参加する大的大会が行われています。京都の弓の話は京都の弓道体験・初心者教室にも少し書きました。
弓が「修養」になっていった
戦のない時代が長く続く中で、弓は武士の教養や修養として「術」であり「道」でもあるものになっていきます。江戸時代には、森川香山による大和流も生まれました。
当てる技を磨くことと、姿勢や心を整えること。その両方を一つの稽古の中で求めるいまの弓道の考え方は、この時代にかたちになっていったと言えそうです。
明治〜現代|「弓道」の名前と、全国共通の射法ができるまで
明治の衰退と、大日本武徳会
明治になって武士の時代が終わると、弓をはじめ武術全体が一度すたれます。そこで1895年(明治28年)、京都で大日本武徳会が創設され、弓も柔道や剣道とともに奨励されるようになりました。
同じころ、本多利實(ほんだとしざね)が東京の学校で弓を教え、のちに本多流と呼ばれる射法を広めています。これも後半で触れます。
学校教育と戦争をはさんで
大正から昭和にかけて、弓道は中等学校以上の学校で授業や部活動に取り入れられていきます。ただ、戦争の時代には武道も戦いと結びつけられ、1945年(昭和20年)11月には学校での武道の授業が禁止されました。大日本武徳会も戦後に解散しています。
学校での弓道がふたたび認められたのは1951年(昭和26年)。1967年(昭和42年)には高校の体育の授業(正科)でも教えられるようになりました。いま高校の弓道部が全国にたくさんあるのは、この流れの先にあります。
全日本弓道連盟の発足と、射法・審査の統一
戦後の1949年(昭和24年)、日本弓道連盟が発足しました。いまの全弓連で、1957年から今の名前になっています。
流派ごとに引き方が違うままだと、全国で同じように教えたり、同じ基準で審査したりするのが難しくなります。そこで連盟は『弓道教本』をまとめ、足踏みから残心までの射法八節を、流派をこえた共通の基準にしました。級・段位の審査も、この基準で行われています(弓道の段位一覧)。
いまの弓道|国民スポーツ大会、そして世界へ
いまの弓道は、国民スポーツ大会(旧・国体)の正式競技です。全弓連は、弓道が目指すものとして「真・善・美」を掲げています。2006年には国際弓道連盟もでき、海外にも愛好者が広がっています。試合のルールは弓道のルールにまとめています。
弓道の流派|小笠原流・日置流・本多流の違い
流派は、射法や作法を師から弟子へ受け継いできた系統のことです。歴史の中で数えきれないほど生まれていて、とても全部は追えません。ここでは、名前がよく出てくるものに絞ります。
「礼射」と「武射」という分け方
流派の説明では、儀礼の中で発展した「礼射(れいしゃ)」の流れと、戦場での実用から発展した「武射(ぶしゃ)」の流れに分けて説明されることがよくあります。礼射の代表として小笠原流、武射の代表として日置流の名前が挙がることが多いです。
ただ、どちらの流れにも礼と技の両方があって、きれいに二つに割れるものではないようです。大まかな見取り図くらいに考えておくのがよいと思います。
小笠原流|礼法・弓術・弓馬術を伝える
小笠原流は、源頼朝に仕えた小笠原長清を初代とする流派です。南北朝から室町のころに小笠原貞宗・常興が武家の礼法の基準をまとめ、室町時代には足利家、江戸時代には徳川家の師範として、礼法・弓術・弓馬術を伝えてきました。
いまも流鏑馬や笠懸、地上で射る儀式(蟇目の儀・百々手式など)を、各地の神社で行っています。自分たちを「八百五十年の歴史を受け継ぐ」流派と紹介していて、詳しくは小笠原流の公式サイトで読めます。
立つ・座る・歩く・お辞儀をするといった所作から教える、というのが印象的でした。礼法や作法は付け足しではなく稽古の本体だというのは、わたしが以前通っていた抜刀の教室でも感じていたことで、読んでいてうなずくところが多かったです。
日置流|多くの派に分かれた射術
日置流は、室町時代の日置弾正正次(政次と書く資料もあります)を祖とする流派です。実戦で役立つ射として広まり、のちの多くの流派のもとになりました。
正次の射法は吉田重賢に受け継がれ、そこから出雲派・雪荷派・道雪派・印西派・大蔵派などに分かれていきます。尾張や紀州で栄えた竹林派も、この系統の流れです。室町の終わりから江戸の初めにかけて、これだけ多くの派が生まれたそうです。
派ごとの細かな系譜や違いは、伝える資料によって書き方が分かれます。気になる派があれば、その派を伝えている会の説明を読むのが確実です。
本多流|明治に生まれた、正面打起しの流派
本多流は、明治時代に本多利實が日置流の竹林派から出て、それまでの斜面打起しを正面打起しに改めた射法がもとになっています。東京帝国大学などで弓を教え、門人を通じて全国に広がりました。
おもしろいのは、利實自身は「本多流」とは名乗らなかったことです。1917年(大正6年)に利實が亡くなったあと、跡を継いだ孫の利時が生弓会をおこし、本多流を名乗るようになりました。いまは一般財団法人 本多流生弓会が活動していて、「正面に打ち起こして大三を取る」射法を特徴にあげています。
流派の早見表
| 流派 | 始まり | 中心になった人 | いまの主な窓口 |
|---|---|---|---|
| 小笠原流 | 鎌倉時代(礼法の基準は南北朝〜室町) | 小笠原長清、のち貞宗・常興 | 弓馬術礼法小笠原流(稽古場の案内あり) |
| 日置流 | 室町時代 | 日置弾正正次 | 印西派・雪荷派・竹林派など、派ごとの会 |
| 本多流 | 明治時代 | 本多利實 | 本多流生弓会(入会案内あり) |
このほか、江戸時代の大和流など、いまに伝わる流派はほかにもあります。
いまの弓道と流派の関係|「わたしの引き方は何流?」と思ったら
正面打起し・斜面打起しは「流派の名前」ではない
ここが、いちばん混ざりやすいところだと思います。正面打起し・斜面打起しは、射法八節のうち「打起し」のやり方の違いで、流派の名前ではありません。
たしかに、小笠原流や本多流は正面打起し、日置流の多くの派は斜面打起し、という結びつきはあります。でもいまの弓道では、正面・斜面のどちらのやり方もあり、スポーツ庁が公開している弓道の動画でも、打起しを両方のやり方で見せています。斜面で引いているから日置流、正面だから本多流、とは言えないわけです。2つのやり方の違いは射法八節とはの中でも少し書いています。
教室や部活で流派を名乗らないことが多いのはなぜ?
地域の弓道連盟の教室や学校の部活では、とくに流派を名乗らずに教えているところが多いようです。全弓連の射法八節と審査の基準をもとに稽古しているので、流派に入っていなくても弓道は続けられますし、段位も取れます。
一方で、先生が特定の流派を学んできた人だったり、道場が流派の伝統を受け継いでいたりすることもあります。同じ「弓道」でも、教わる場所によって細かな形や言い方が少し違うのは、こうした背景があるからなんですね。
自分の系統を知りたいときは
いちばん確実なのは、習っている先生や部活の顧問に聞いてみることです。所属している弓道会や連盟のサイトに、指導の方針が書いてあることもあります。
ネットの射形の写真や動画と見比べて「これは◯◯流っぽい」と決めつけるのは、やめておいたほうがよさそうです。打起しのやり方だけでは流派は決まりませんし、先生ごとの教え方の違いもあります。
流派の稽古をしてみたいとき
流派そのものを学んでみたい人は、各流派の会の案内を見るのが入口です。たとえば小笠原流は全国の稽古場と礼法のオンライン稽古を、本多流生弓会は入会案内を公開しています。いきなり入るのが不安なら、古武道の演武会や神社の奉納行事を見に行ってみるのもいいと思います。
これから弓道そのものを始めたい人は、まずは地域の教室から入るのが一般的です。始め方は大人から弓道を始めるにはにまとめています。
弓道の歴史・流派についてよくある質問
Q. 弓道はいつからあるの?
弓そのものは大昔から狩りに使われていて、儀式や武士の技としても長い歴史があります。ただ、「弓道」という呼び名が広く使われるようになったのは明治以降で、いまのように全国で共通の射法・審査で行う形になったのは戦後のことです。
Q. いちばん古い流派はどれ?
よく名前が挙がるのは、鎌倉時代の小笠原長清を初代とする小笠原流です。ただ、何をもって流派の始まりとするかは資料によって違うので、「古い流派の一つ」と考えておくのが無難です。
Q. 流鏑馬と弓道は同じもの?
別のものです。流鏑馬は馬に乗って射る騎射で、弓道は地上に立って(または座って)射ます。ルーツは同じ武士の弓で、小笠原流などがいまも流鏑馬を伝えています。
Q. 斜面打起しで引いている人は、日置流なの?
そうとは限りません。いまの弓道では斜面打起しも一つのやり方で、流派に入っていない人が斜面で引くこともあります。気になるときは、先生に「うちの引き方はどういう系統ですか」と聞いてみるのがいちばんです。
まとめ|弓は道具から「道」へ。流派もいまの弓道につながっている
狩りの道具だった弓は、朝廷の儀式になり、武士の技として流派を生み、鉄砲の時代からは心と体を鍛えるものになりました。明治に一度すたれたあと、大日本武徳会のもとで「弓道」として整えられ、戦後は全弓連の共通の射法と審査で全国に広がっています。
小笠原流・日置流・本多流といった流派も、いまの弓道の形や考え方のあちこちに生きています。歴史を知ると、稽古で教わる所作の一つひとつに意味があることが見えてくる。調べてみて、いちばん感じたのはそこでした。
弓道の考え方や射法をまとめて読みたい人には、全弓連の『弓道教本 第一巻』があります。全弓連の公式サイトからも購入できます。
